マスターのとても長い自己紹介

Night Market カウンター全景

ブログを始めるにあたり、まずは自己紹介をしていきたいと思います。

 

と、その前に、僕は基本的に人見知りです。

仕事中も若干人見知りを発揮していますが、39年間これで生きてきてしまいました。

 

もうどうにもなりません。

 

話しかけてもらえれば平気なので、お店に来た際には話しかけてください。

是非お願いします笑

なもので、自分のことを話すのは苦手。

文章ならば平気なので、この文章は僕の素が出てると思います。

そしてとても長いです。

正直、ホントに長いです。なので本当に読みたい人だけ読んでください笑

 

自己紹介でしたね。

1980年に北海道で生まれ、現在39歳です。

趣味はキャンプと音源収集。6歳になる娘がいます。

19歳の頃に東京に出て、20歳でバーテンダーの世界へ。

以来30歳になるまでずっと飲食店で働き、その間はほぼバーテンダーとして仕事をしていました。

「ほぼ」となっていますが、実はイタリアンレストランやフランス料理店でのウェイター経験もあるのです。

とにかく飲食業、そしてバーテンダーとして20代をまるまる過ごし、青山、新宿、西麻布、六本木、銀座、横浜、渋谷、赤坂、すすきのと様々な繁華街を転々としていました。

山梨には2012年に農業をするために移住。

有機農家で1年間の研修を受け、有機農家として独立。

2年の農家時代を経て、2015年にNight Marketをオープン。

移住して今年で7年になります。

せっかくなので、ここからは過去を振り返りつつ、僕のひととなりを知ってもらえればなと思います。

興味ねーよ!って気持ちはよくわかりますが、ここまでたどり着いてくれたあなたです。読んでくれると信じて書いていきます笑

まずは10代!

そこまで!?と思う気持ちはよくわかりますが、せっかくなので。。

 

 

フワフワと流れるように生きていた10代

特に頭がいい訳でもなく、運動が得意な訳でもない。真面目でもないけど、不良でもない。

というような、どこにでもいるヤツでした。

この頃に誇れることと言えば、小学生の頃から続けていた少林寺拳法の北海道大会で優勝したことくらいです。

 

少林寺 拳士

 

少林寺の道場に通っていたので、部活にも入らずひたすら少林寺拳法に打ち込んでいました。

中学2年生までは!

中学2年生の頃から微妙に不良ぶっていたので、少林寺拳法はやめてブルーハーツやセックスピストルズのコピーバンドなどをやったりしていました。

パンクに目覚めたんですね笑

そして札幌の工業高校へ進学。

 

ですがパンクに目覚めた僕は、その高校を1年で中退します。

 

理由は特になかったです。

1年生の終わりに、あと2年もここに通うのは想像できないなと思ったのを覚えています。

両親には迷惑をかけたなと、大人になってから思いました。。ごめんなさい。

高校1年生の頃からファーストフード店でバイトをしていて、働いてお金を稼いで好きなことにお金を使えるのって楽しい!!

と思っていたのも理由のひとつかもしれません。

中退後はコンビニ、ガソリンスタンドとバイト先を変え、当時の彼女とほぼ同棲をしたりとフラフラしながらも楽しく過ごしていました。

 

酒の味を覚えるのもこの頃です(時効ということで)

 

カクテル

 

当時はサントリーの「カクテルバー」という瓶入りのカクテルが流行っていて、カクテルというものを飲んだのもこの頃が初めてです。

酒なんてカッコつけて無理に飲むものだと思っていましたが、このカクテルバーは飲みやすくて美味しく

「カクテルって美味い!」

と思ったのを覚えています。

酒の味も覚えてのんびりと暮らす日々が続いていましたが、

「ずっとこのままでいいわけがないよな、なにかにならなければ、、、!」

と、漠然とした不安を持っていました。

 

「なにか大きなきっかけが欲しい!自分の人生の起爆剤を!」

 

そう思った19歳の僕は「とりあえず言ってみるか、、」くらいの気持ちで東京に出ることにしたのです。

 

バーテンダーという仕事に出会うまで

Night Market シェイカーの画像

 

東京で最初に住んだのは、東急目蒲線の不動前という駅でした。

そして「とりあえず日銭を稼がねば、、」いう思いから駅前にあった居酒屋さんでバイトをすることにしたのです。

その時の時給は1000円!北海道の頃は700円とかだったので、めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。

しかも賄いつき。

お金も貰えて飯も食えるなんて、飲食店の仕事最高!!くらいの単純な気持ちから飲食業の世界に入り込んでいってしまいました。

 

最初の物件を1年で引き払い、次は京王線の明大前という駅に引っ越します。

それをきっかけに、次はもっとカッコいいいお店で働きたい!!という思いから、新規オープンでオープニングスタッフを募集していた西麻布のレストランで働くことになります。

 

このレストランはバリバリの1流フレンチで2番手を張っていたシェフ、渋谷にあった人気イタリア料理店のホールスタッフが集結して始まった創作カジュアルフレンチのお店でした。

当時の僕の経験値と言えば、ファーストフードにガソリンスタンド、飲食店の経験と言えば居酒屋だけ。

見たこともない聞いたこともない料理と酒。バリバリと働く他のスタッフ。

 

「飲食店の仕事ってこんなにハードなものだったのか!!!」

 

お店の内装や料理、料理人の気迫やホールスタッフの仕事っぷりにかなり衝撃を受けたことを覚えています。

なぜ採用していただけたのかはわかりませんが、経験値不足と元来の人見知りな性格から全く使えないスタッフだった僕は

「ホールの仕事で使えない」

という理由でドリンク係に任命されることになります。

ビールやワインを注いだり洗い物をしたりがメインの仕事でしたが、この店には数種のカクテルが用意されていました。

メニューに載っているカクテルはレシピを見ながら作ることができましたが、たまに来る想定外のオーダーにはうまく対応できず。。

 

これは今でも覚えていますが、ある時にマルガリータの注文を受けました。

今でこそ目をつぶってても作れそうなカクテルですが、当時の僕には未知の世界。

オーダーを持ってきた先輩に、「マルガリータって何ですか??」と聞くと、帰ってきたのは

 

「お前ホントつかえねーな!!」

 

のひと言。

もちろん悲しかったのですが、同時に

「やってやろうじゃねえかコンチクショウ!!!」

とも思いました。

次にマルガリータのオーダーを持ってきたなら、完璧に作ってやらあ!!なんなら誰よりも上手いモノを作ってやる!!

少林寺拳法で北海道大会優勝した僕です。

根性だけはありました。

これが僕のバーテンダー人生の始まりです笑

 

新宿修行時代から30代まで

20代マスター

 

レストラン勤務でバーテンダーに興味を持った僕は本格的にバーテンダーの仕事をしたいと思い、わずか半年でレストランを辞めて、外苑前にあったバーで働き始めます。

20歳の時です。

ところがこのお店のオーナーが良くも悪くも放任主義。

店にもあまり来ないし何かを教えてもらえることもなく、未経験の僕とアルバイトの男の子2人で恐る恐るやっているような感じでした。

 

「ならば自分でやるしかない!」

とはいえ右も左もわからない、、

そこで、当時読んでいた「世界の銘酒辞典」の後ろの方に紹介されている日本バーテンダー協会へ電話をしてみることに。

 

未経験の素人だった僕を快く受け入れてくれたバーテンダー協会。そこでたくさんのバーテンダーの先輩たちに出会うことができました。

先輩の内の一人にとても良くして頂き、「本気でバーテンダーになりたいなら修行先を紹介してやる」という言葉をキッカケに新宿のとあるバーで働き始めることになります。

 

BAR

 

新宿の店はいわゆるオーセンティックバーで、チャージが1000円ビールも1杯1000円、ビールを1杯飲めばお会計は2000円を超えるというような少し高級なお店でした。

2年ほど働き、厳しくも優しいチーフにバーテンダーとしての基本を叩き込まれることになります。

ここでの経験がいまの僕に根付いているのは間違いありません。

当時はめちゃくちゃ怖かったチーフバーテンダー。。いまではめちゃくちゃ感謝しています。

 

そしてこの頃の僕は、今思うとちょっとおかしな若者でした。

昔から人見知りの僕は東京でもあまり友達がいなく、出会うのは職場の先輩やバーに飲みに来てくれるような年上のお客さんばかり。

夕方前に出勤し、明け方まで働く毎日。たまの休みは勉強も兼ねて有名なバーを飲み歩く。

今思うと面白いのですが、20歳そこそこの坊主が1人で銀座や西麻布のバーに行って、カクテルやレアなウィスキーを飲んでいたのです。

変な20歳だったなあ、と思います笑

ただ、その頃の経験はとてもいい経験でもありました。

お酒はもともと好きでしたし、バーでの仕事もとても好きでした。

 

早く1人前のバーテンダーになりたい。

 

それだけを考えていたように思います。

その後、西麻布、渋谷、六本木、新宿、銀座、横浜、赤坂、青山と様々な場所でバーテンダー、たまにレストランのウェイター兼バーテンダーとして経験を積んでいきます。

 

北海道帰郷、そしてすすきのでバーテンダーに

すすきの看板

30歳も目前になったころ、赤坂のバーで働き始めることになりました。

刺激的で面白いお店で仕事自体はとても楽しいモノでしたが、この頃からバーテンダーの仕事に対して

 

「やりたくてやっている、というよりも、ただ得意でできることを惰性でやっているだけなのでは??」

 

と、考えることが増えてきていました。

自分が悪いのですが、挑戦も進歩もせず、ひたすら東京で消耗と消費を繰り替えす日々。

東京という大都会での暮らしにも限界を感じはじめていました。

30歳になる前に、もっと違う事にも挑戦してみたい。バーテンダーの経験を踏まえて、自分にはなにかできることが他にないものか、と日々悶々とするようになっていったのです。

その後、30歳を機に故郷の北海道に帰ることに。

 

北海道に帰ってからは、失業保険を貰いながらプラプラとする日々が続きました。

あまりにも暇なので、実家の庭の畑で野菜を作ってみることに。

ですが、これが難しい!!

本を読みながらやってみても、まったくうまくはいきません。

実家の畑をいじりながら、漠然と

 

「農業って仕事としてどうなんだろう??」

 

などと考えるようになっていきました。

26歳の頃に旅行したタイ、チェンマイ地方の田園風景と、現地の昔ながらの暮らしを見て漠然と田舎暮らしを考えていた僕は、やがて

 

「これ仕事にできないかな、、田舎に移住して自分の力で生きるんだ!!」

 

という気持ちが強まり、農業を志すことになります。

とは言え伝手などまったくありません。

とりあえず仕事もしなければならないし、農家を志すという目標を胸に、まずは札幌すすきののバーでバーテンダーの世界へと戻ることになるのです。

 

すすきのから北杜市まで

山登り中のマスター

 

すすきのでは約1年働きました。

働いていたお店は10席くらいの小さなバーで、僕よりも若い店長と2人だけのお店。

北海道出身のバーテンダーなのに、すすきの勤務は初めて。

ほとんど未知の街でしたが、めちゃくちゃいい街でした。

すすきの最高。

そんな最高の街すすきので働きながら、相変わらず農業をやるにはどうすればいいのかと考えていました。

 

まずは研修を受けたい、そしてできれば無農薬で野菜を作りたい、、でもどうすれば??

 

とりあえずネットで農業系の求人をみてはいましたが、募集があるのは大規模農家の期間従業員がほとんど。

夏だけのレタス農家、ズッキーニ農家、たまに家と土地と娘が付いてきます。跡継ぎにならないか?みたいなのもあったり。

しかも車の免許が必須なところが多く、当時車の免許がなかった30歳の僕に採用のお知らせは届きませんでした。

どうしたもんかななんて悩んでいたところ、東京の頃の友人から電話が。

 

友 「最近、どうしてんの?」

僕 「プラプラしながら農業の求人探してるよ。」

 

友 「農業やりたいの?」

僕 「うん。」

友 「俺もなんだよ。」

 

という感じで、友人も一緒に農業を志すことに。

この友人とは東京に居た頃によくつるんでいて、彼の両親が所有している山梨、白州の別荘に遊びに行き、山に登ったり、温泉に入ったりなどしていました。

東京に住んでいた頃から、北杜市には縁があったのですね。

 

しばらくしてその友人が

 

「山梨に研修を受け入れてくれる有機農家さんがいた!!」

 

と、知らせをくれることになるのです。

 

農業研修で北杜市へ移住

農業研修中のマスター

 

研修を受け入れてくれたのは、北杜市の個人有機農家さん。

とりあえず一度見学と挨拶に行こうということになり、山梨へご挨拶に。

当時まだ働いていた札幌すすきののバーからお休みをもらい2012年の6月頃、1泊2日の山梨の旅へ出かけました。

久しぶりの山梨は、やはり素晴らしい場所でした。

見学させて頂いた農場も素晴らしい所。その農家さんがやっている農業もすごく素敵で理想的な感じ。

お話を伺い

「農業は甘いもんじゃないよ」

なんて話もしっかりと教えて頂きましたが、とにかく研修を受けさせて下さいとお願いして受け入れてもらうことに。

種まきなど1月の終わりころには始めるから、次の年の1月末から研修を始めるという事になりました。

 

札幌へ帰り、勤めていたバーは事情をお話しして退職。

6月頭には研修を決めて、7月末にはお店を退職しました。

勢いだけはありましたね笑

もう一度タイへ行って、ぼんやりと田舎暮らしや農業を意識させてくれたチェンマイの景色を見たいと思い、1ヶ月ほどタイ旅行へ出かけました。

タイから8月末には成田空港へ着いて、そのまま東京の友人宅に居候。

先輩が始めたばかりのお店に、山梨へ行くまでの残り5か月間限定で雇って頂きました。

 

そして翌年の1月。冬の真っただ中に

僕は東京から北杜市まで甲州街道をカブ(原付バイク)で8時間かけて移住してきたのです。

 

1年間の農業研修、そして農家として独立

トラクターに乗るマスター

 

山梨は車社会。

当面の生活拠点の家から研修先の農場までは歩いていける距離ではなく、もちろん電車もバスもありません。

しかし山梨に行ってからの当面の生活費などを考えると、お金もカツカツで車を買う余裕はありません。

そこで僕は研修開始10日ほど前に、カブを購入。

研修開始2日前の1月26日。僕は甲州街道をカブに乗って一路西へ。

冬の寒い季節に慣れない運転、8時間近くかけて山梨へ移住してきました笑

そこから研修が終わる12月末まで、僕はひたすらカブで移動していました。

農家と言えば軽トラ、なのに何故かカブ。。

研修先の農家さんも最初生ぬるい目で見ていたような気がします笑

 

ですが研修先の農家さんをはじめ、周りの人達の力のおかげでなんとか1年近くの研修を終えることができました。 

その後、個人有機農家として「Hammock Farm」を立ち上げる事となります。

 

2年間の農家時代を経て、Night Marketをオープン

Night Market 看板

 

「Hammock Farm」を始めてからは、まさしく激動の2年間。

 

自分で仕事を作ることの大変さ、農業の厳しさ。野菜作りがうまくいかないこともあり、売り先の開拓もなかなか進まず。

このまま専業農家としてやっていけるのかという不安もありました。

ですが、この土地から離れることは考えられず

「なんとかうまいやり方はないものか。。」

と、考えるようになりました。

 

元々お酒が好きで特にバーで飲むことが好きなのですが、山梨は車社会。

そして北杜市にはバー自体がほとんどありません。

 

農業をしている時によく出ていた余り野菜、ハーブ、そして山梨の豊富な果実。

これってカクテルにできるよなー、なんて漠然と考えていたり。。

師匠の農家さんは自家採種したニンジンの種をラム酒に漬けこんでいたり。。

 

農業をしながらも、もやもやとしていたモノが1本につながった感じ。。

 

「よし、じゃあ、自分でバーをやろうか。。」

 

というか、僕は農業の他には酒を混ぜたり注いだりするくらいしかできないし、それが農業よりも得意だったりするのです。

 

農業をやりつつ、お店を開く。

 

どちらも簡単ではないですが、これは面白いんじゃないか!

と思い、農業×バー+α のお店「Night Market」のマスターとして、またバーの世界に戻ってくることになりました。

 

なんか最初が長くて最後だいぶ端折りましたが、こんな経緯があって2015年の初夏にお店を開くことになったのです。

 

お店を開いて今年で4年目

Night Market 外看板

 

というわけで2019年現在、お店を開いて今年で4周年です。

その間も店が火事になったり、いろんなことがありました。

オープン当初よりも食事のメニューがずいぶん増えて、お食事での利用をしてくれるかたも来てくれるように。

 

ですが、あくまでもウチはバー。

そして僕はバーテンダーです。

 

バーなんて言うと堅苦しく感じる方もいるかも知れません。

ですがウチはノンアルコールカクテルや野菜や果物のスムージー、他にも様々なノンアルコールドリンクが楽しめます。

もちろんスタンダードなカクテルやちょっと変わったミクソロジーカクテル、ちょっと珍しいウィスキーや世界のハーブ酒など、お酒もたくさんあります。

「ラム・コンシェルジュ」というラム酒に関する資格も持っています。

なのでラム酒もたくさんあります。

 

Night Market酒棚

 

外でご飯を食べて、もう一軒どこかで飲むってこの辺りじゃ少ないような気がします。

近所のレストランでお食事、締めにウチでコーヒー、ドライバーじゃない方はお酒を1杯なんて使い方はいかがでしょうか??

レコードによる音楽なんかも楽しめます。

ソファもあるので、食後の1杯をゆったりと楽しんで頂ければと思います。

 

さいごに

Night Market カウンター

 

長々と書いてしまいましたが読んでくださった方、ありがとうございます。

こんな感じで僕は無計画でバカな男なのですが、どうぞよろしくお願い致します。

 

しつこく書きましたが、人見知りなので初めて会うお客さんには最初へんな感じかもしれません笑

ですが、お気軽に会いにきてやって下さい。

そして優しく話しかけて下さい。

 

今夜もお待ちしています!!

Night Market カウンター全景

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